津軽こぎん刺し模様 × デザインの可能性

津軽こぎん刺しの歴史と模様

津軽こぎん刺しの歴史

制約と津軽こぎん刺し

津軽こぎん刺しとは青森県津軽地方に伝わる伝統的な刺し子である。
北国、津軽では綿の栽培が困難なため一般に使用される衣服の多くは麻布でできていた。
また、享保9年(1724)に出された「農家倹約分限令」により農民は仕事着はもちろんのこと、
被り物、肌着、帯に至るまで細かく規制されていた。


用の美

木綿の着用を許されなかった農民は麻布を重ねて麻糸で刺した着物を普段着としていた。
農作業では重い籠を背負うので擦り切れやすい肩や背中を糸で刺すことにより摩耗を防ぎ、
また、雪国津軽の冬は麻布だけでは寒さを防ぐことはできず、
糸で布目をびっしり刺すことで保温効果も高めていた。
津軽こぎん刺しは農民自身が体を守るために限られた資材と厳しい社会制約の中で
補強と保温を目的に作り出された知恵の結晶なのである。


美意識が生んだ模様

明治に入ると木綿の着用が解禁になり、木綿糸が手に入りやすくなり
津軽こぎん刺しも藍色の麻布に白い木綿糸で刺されるようになっていく。
農家の女達の美意識と工夫で多くの模様が生み出され、他の刺し手と美しさを競い合うようになった。
娘達は幼少から刺す練習をし、晴れ着用として嫁入り支度に欠かせないものとなり、
明治20年頃には手の込んだこぎん刺し着物が多く刺されている。


鉄道の影響

明治24年に上野~青森間の鉄道が開通し、明治27年に青森~弘前間に鉄道が延び、
豊富な物資が流通し始めると麻より暖かく丈夫な木綿の着物が手に入るようになり、
手間のかかるこぎん刺し着物は急速に廃れていった。


民藝運動から現代へ

昭和に入ると、柳宗悦[やなぎむねよし](1889~1961)らによる民藝運動によって、
再び注目を浴びることとなる。
宗悦は津軽こぎん刺しの模様に注目し民家や古道具屋で古作こぎん着物を収集し、
「名もない津軽の女達よ、よくこれほどのものを遺してくれた」(昭和7年「工芸」より)と絶賛している。
この運動をきっかけに津軽こぎん刺し模様は色とりどりの糸や布を用いて応用され、
現在も手芸ファンに親しまれている。