◆制約と津軽こぎん刺し
津軽こぎん刺しとは青森県津軽地方に伝わる伝統的な刺し子である。
北国、津軽では綿の栽培が困難なため一般に使用される衣服の多くは麻布でできていた。
また、享保9年(1724)に出された「農家倹約分限令」により農民は仕事着はもちろんのこと、
被り物、肌着、帯に至るまで細かく規制されていた。
◆用の美
木綿の着用を許されなかった農民は麻布を重ねて麻糸で刺した着物を普段着としていた。
農作業では重い籠を背負うので擦り切れやすい肩や背中を糸で刺すことにより摩耗を防ぎ、
また、雪国津軽の冬は麻布だけでは寒さを防ぐことはできず、糸で布目をびっしり刺すことで保温効果も高めていた。
津軽こぎん刺しは農民自身が体を守るために限られた資材と厳しい社会制約の中で
補強と保温を目的に作り出された知恵の結晶なのである。
◆美意識が生んだ模様
明治に入ると木綿の着用が解禁になり、木綿糸が手に入りやすくなり
津軽こぎん刺しも藍色の麻布に白い木綿糸で刺されるようになっていく。
農家の女達の美意識と工夫で多くの模様が生み出され、他の刺し手と美しさを競い合うようになった。
娘達は幼少から刺す練習をし、晴れ着用として嫁入り支度に欠かせないものとなり、
明治20年頃には手の込んだこぎん刺し着物が多く刺されている。
◆鉄道の影響
明治24年に上野〜青森間の鉄道が開通し、明治27年に青森〜弘前間に鉄道が延び、豊富な物資が流通し始めると
麻より暖かく丈夫な木綿の着物が手に入るようになり、手間のかかるこぎん刺し着物は急速に廃れていった。
◆民藝運動から現代へ
昭和に入ると、柳宗悦[やなぎむねよし](1889〜1961)らによる民藝運動によって、再び注目を浴びることとなる。
宗悦は津軽こぎん刺しの模様に注目し民家や古道具屋で小作こぎん着物を収集し、「名もない津軽の女達よ、よくこれほどのものを遺してくれた」(昭和7年「工芸」より)と絶賛している。
この運動をきっかけに津軽こぎん刺し模様は色とりどりの糸や布を用いて応用され、現在も手芸ファンに親しまれている。
お城のある弘前市から西側、中津軽一帯の農村で作られたもの。
麻布の目が緻密で模様も細かいのが特徴である。重たい荷物を背負うために、肩に縞模様を配している。
前身頃には縞で三段、後ろ身頃は縞で二段に仕切られて様々な模様が使われている。
後ろ身の上段には轡繋ぎ[くつわつなぎ]が刺され、山歩きの魔除けの意味があるという。
◆東こぎん
弘前市の東側の穀倉地帯、現在の南津軽郡一帯で作られたもの。
太めの麻布で粗めに織られた布に刺されたものが多い。
他地域にみられる縞模様はなく、小柄な単独模様を繰り返し使用したり、
囲み模様と流れを応用した大胆な配置が特徴である。
◆三縞こぎん
岩木川の下流、北津軽郡金木町を中心に作られたもの。
前身頃と後ろ身頃に太い3本の縞模様が入っているのが特徴である。
金木町周辺は冷害や凶作に見舞われることが多く、生活に余裕がなく刺し手も少なかった。
現存する古作の三縞こぎん刺し着物は非常に少なく貴重なものである。
津軽こぎん刺しは布の織り目(織り糸の間)を刺し、縦糸の目を数えて模様を作っていく。
基本的に奇数目(1目、3目、5目、7目)を数え、水平/垂直にシンメトリーな菱形ができている。
また、よく使う模様には『猫のマナグ(眼)・石ダタミ・花コ・べご(牛)刺し・ウロコ』など名前が付けられていた。
そんな所からも津軽こぎん刺し模様が生活に密着した模様であったことがうかがえる。
